明治維新の偉人 小松帯刀(肝付尚五郎)・伊牟田尚平ゆかりの地 喜入(きいれ)町

喜び入る喜入町は、明治維新の偉人 小松帯刀(肝付尚五郎)・伊牟田尚平ゆかりの地です。肝付家御仮屋跡・肝付家歴代の墓地・伊牟田尚平誕生地&墓地、そして喜入町の史跡などを写真や地図でご案内します。風光明媚な喜び入る喜入町には温泉プールもある道の駅喜入があります。散策後にお休みいただけます。おじゃったもんせ♪

さるっが〜♪ 尚五郎・尚平どんロード 


NHK大河ドラマ"篤姫"の友 肝付尚五郎さん(小松帯刀公)が暮らした喜入領主肝付家御仮屋跡です。当時の面影を残す石垣です。
現在は喜入小学校があります。 肝付尚五郎実父肝付兼善公墓地地図 ←リンクをクリックするとYahoo地図をご覧いただけます。
(パノラマ写真の都合により道路が湾曲しておりますが、直線道路です。)

肝付家御仮屋跡(喜入小学校)へのアクセス
JR鹿児島中央駅(JR指宿枕崎線)⇔喜入駅(540円)  駅から徒歩。
  喜入駅⇔薩摩今和泉駅  篤姫ゆかりの地 薩摩今和泉へ行かれる途中でお立ち寄りいただけます。
電車では「喜び入る喜入駅」とアナウンスされます。

[小松帯刀公の略歴]
1835 喜入領主肝付兼善の子として誕生。母は島津久貫(忠寛?)の娘。幼名 肝付尚五郎兼才。
1856 吉利領主小松家の養子となり小松帯刀清廉と改める。
1858 当番頭
1861 御側役勤 島津久光に仕える。
1863 家老職 その後、西郷隆盛・大久保利通・坂本龍馬等と共に大政奉還・王政復古の大偉業に尽力する。
1868 徴子参与職 その後外交官副知事になる。
1870 病死。36歳。幻の宰相(総理大臣)といわれています。
(ネット・喜入町郷土誌参照)

喜入町の中世時代・近世時代(肝付氏時代)
室町時代 1413年 島津久豊と伊集院頼久の戦い 久豊が勝利し「給黎」を「喜入」と改める。
戦国時代 1495年 初代喜入氏 島津五郎三郎若狭守忠弘
        2代 頼久  3代 忠誉  4代 忠俊  5代 季久  6代 久道
1558年 島津貴久の厳命により島津姓を名乗ることを禁じ、その領地の地名の名字を名乗ることになる。
       5代 季久より喜入氏を名乗る。
1595年 封地替えにより加治木・溝辺・身躰堂の領主 肝付三郎五郎兼三(伊集院兼三)が領主となる。
       (喜入氏は鹿籠(現枕崎市)に移る)
江戸時代 喜入改封時初代 肝付三郎五郎兼三  2代 肝付兼篤  3代 肝付兼武
       4代 肝付兼屋 居館を旧麓から麓(現喜入小学校)に移す
           兼屋婦人の墓  萬松山清涼院跡
          (島津氏18代当主薩摩藩初代藩主 島津家久の娘 法名芳屋雲英庵主清涼院殿)
       5代 肝付久兼  6代 肝付兼柄  7代 肝付兼逵
       8代 肝付兼伯  9代 肝付兼満  10代 肝付兼般
       11代 肝付兼善  小松帯刀(肝付尚五郎兼才)の父
       12代 肝付兼両  小松帯刀(肝付尚五郎兼才)の兄
       13代 肝付兼物
肝付家墓地には3代 〜 12代までの領主と一族が眠っています。



小松帯刀の郷 吉利   喜入のホテルのご案内

掲載場所: 北側から  伊牟田尚平誕生の地伊牟田尚平墓地道の駅喜入(マリンピア喜入)・喜び入るキーホルダー肝付家御仮屋跡キイレツチトリモチなのはな号ビューポイントJR喜入駅・喜び入る入場券萬松山清涼院跡(墓地)刀匠玉置家歴代の墓なのはな号ビューポイント旧麓の田の神給黎(きいれ)城址肝付家歴代墓地鹿児島市山下町 小松帯刀銅像鹿児島市原良町 小松帯刀邸跡鹿児島市慈眼寺町 ふるさと考古歴史館(Yahoo地図リンク)

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